ピアニスト 中村紘子さんが天国へ

中村紘子さんが亡くなって2週間がたった。あんなにお元気だったのに信じられない。つい先日、東京文化会館へチャイコフスキーを聞きに行った。私はいつもの様にお気に入りの席に着いた。舞台にはピアノと中村紘子さんだけ。観客席はと見上げれば上の方までいっぱいだった。一人の演奏家にこんなに多くの人達が集まる事に胸が熱くなるのを覚えた。

中村さんは、時々演奏しながら右手のハンカチで汗を拭いた。ピアニストの両手は絶え間なく動いているのに・・・ハンカチをとり、汗を拭き、元の場所へハンカチを置くと言う、一連の動きを曲の中に、ごく自然に納めていた。慌てるでなし・・・ さすがベテラン!!堂々としたゆとりの中での演奏ぶりに、心底から陶酔した事を思い出した。

中村さんが3歳からピアノのお稽古に通いだした頃、家族が「ピアノ嫌い」と言われない様にご機嫌とるのに大変だったと音楽雑誌で読んだことがある。又、N響が初めての世界一周演奏旅行に出る時、16歳の中村さんが抜てきされた事。此の時、振袖を着て演奏されて、世界各地で大好評を得たようです。此の時も振袖を一人で着て、帯を結ぶことを、何度も何度も何度も練習して出掛けたようです。

訃報に寄せた関係者の話の中に中村さんは小柄でしたが・・・と表現されていましたが、私は威風堂々とした演奏ぶりや指導時の包容力のある会話を通して心も体も大きな人だと思っていました。本当に努力を重ねた方でした。お疲れ様でした。合掌

以下の写真は NHKの放送からです。

56年前 N響 初の海外演奏時

56年前  
           N響 初の海外演奏時

 

3歳のころ

3歳のころ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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歌舞伎鑑賞教室

 この教室は、伝統芸能の保存振興のために中学生、高校生の若い世代を中心に多くのお客様に歌舞伎を楽しんでもらおうと開いているそうです。   私はこの教室の様子が知りたくて、初めて参加しました。国立劇場6月の出し物「新皿屋敷月雨暈」しんさらやしきつきのあまがさ を観てきました。皿屋敷と言えば、秘蔵のお皿を巡り、殺された若い女性が怨霊となって表れ、1枚ー2枚ーとお皿をかぞえる怪談を思いだしますが、この作品は怪談ではなく、宗五郎の心の動きを表現しています。無実の罪で殺された妹を想い、禁酒していたのについ手が出て1杯、2杯と飲むうちに酔いがまわっていく過程が見どころです。 その後 色々あり、最後に殿様が宗五郎夫婦に非を詫びて、其の後の一家に金銭的に援助する。 これが新皿屋敷です。

殿様が町人に手を付いて謝るなんて江戸時代にはありえませんでした。明治の御代に成り、庶民の生活も大きく変わっていく中で、河竹黙阿弥の作品は多くの人々に愛されたのです。教室では時代背景、狂言作者、小道具、衣装、お化粧、回り舞台の仕組み、芝居の見どころ、役者の表現力等沢山勉強しました。其の後、美しく盛られた幕の内弁当を食べて観劇しました。いつも以上にゆったりとした気分でお芝居が楽しめました。 主演の中村橋之助、女房役の中村梅枝が好演で見応えがありました。

宗五郎役 中村橋之助 女房役  中村梅枝

宗五郎役 中村橋之助
女房役  中村梅枝

若冲展  只今 3時間30分待ちで~す

入口のポスター

入口のポスター

若冲展が始まって中日も過ぎ、観そびれては大変と出掛けた。爽やかな5月の朝、私は久々に来た上野公園をのんびり歩いて行った。何と長蛇の列が目に入ってきた。何処が最後尾なのか 唯々呆然とした。スタッフに聞くとチケット買うのに2時間、其のあと入館の列で3時間かかりますと聞き、仕方なく帰宅した。しかし、観たくて待っていた展覧会なので又数日後出掛けた。今度は5時半に家を出た。1.2番は無理でも100番にはなれると思っていたが、何とすでに長い列に成っていた。またもやびっくりしたが、チケットは7時から発売開始、入館も1時間早く開始したので2時間待つくらいで入れた。 やれやれ

前書きが長くなりましたが、伊藤若冲(1716-1800) 生誕300年を記念しての展覧会は期待通りに楽しめました。若冲の綿密な写生と幻想的な雰囲気も感じて引き込まれました。一般的には雄鶏の絵で有名ですが、この度は沢山の作品に出合えました。特に「動植綵絵」は宮内庁三の丸尚蔵館から出展されていました。数が多いので気に成り調べてみました。若冲が両親、弟、自身の永代供養を願って相国寺に寄進された作品でした。その頃の催事では相国寺が皆さんにお見せしていたようです。

其の後、明治22年に相国寺は明治天皇に「動植綵絵」を献納されました。その当時の廃仏毀釈の波の中で、下賜金1万円が相国寺の1万8千坪を維持できたそうです。

皇居では、重要な賓客をお迎えした時に飾られていたそうです。宮殿の内装とも良く調和されていたそうです。

(動植綵絵 どうしょくさいえ とは動植物を描いた彩色画で、若冲が相国寺に寄進された折に書かれた言葉です)

デコレーション

先日、ケーキのデコレーション作りに参加しました。ところが、時間に成っても講師が現れず・・・「どうしたのでしょう?」と口々に・・・そのうちに先日作ったお菓子が簡単で美味しかったわ!とか言い出して、そのレシピFAXもらえます? とか だんだん話が盛り上がり、皆さん初対面でしたが、すっかり打ち解けて楽しいおしゃべりタイムを過ごしていました。

講師は50分も遅れて背中を丸めて教室に入ってこられました。ところが、私達は楽しい時間を過ごしていましたから、皆さん笑顔で講師をお迎えしましたので・・・講師はたいそう戸惑いの様子でした。

そんな中で、講師は材用を取り出し、分配し、作り方の説明に入りました。「待っていました」とばかり受講生の手は動き出し、その早い事 早い事 たちまち形になっていきました。  全員同じ材料なのに、食紅の使い方で濃淡になり、指先の動かし方でそれぞれ違ったお菓子が出来ました。最近はカステラの形も色々あって、売っていますのでそれを買ってきて自分のアイデアで飾れば世界で一つのお菓子が出来上がります。

今日は新しいデコレーションの作り方とお友達が増えました。

 

私の作品です。可愛いでしょう!

私の作品です。可愛いでしょう!

小学一年生

皆様 こんにちは お変わりございませんか                                       間もなく小学校の入学式です。 ご近所に小学一年生は居ますか 私の町では本年2名です。0の年もありました。 登下校時でも、小学生の姿はちらほらと成りました。寂しくなりました。

思い起こせば、体が隠れそうな大きなランドセルを背負い、上級生について行くあの可愛らしい子供の姿、 「今日から一年生」・・・親も子供も嬉しい時でした。 あの頃は、どこの親も子育てに一生懸命でした。

最近は「この子が居るから邪魔」と親が思うようになってきたようです。無抵抗な

幼子の大事な命を親が絶つのです。本当に情けない事に成ってきました。若い親たちは何でも自分の思うように生きたいのですが、幼子を抱えている時は少し我慢をしてほしいですが・・・・・。  しかし 世の中を見渡せば、若者に冷たい政治の中に生きているのです。

昔、派遣社員はありませんでした。 要するに現代の「雇用形態」が若者の心を蝕んでいるのです。心が病んでいる親がどうして子供に優しくできるでしょうか?

子供がすくすく育つように・・・、子育て中の親たちが豊かな気持ちで暮らせる様に・・・

「雇用形態」を考え直してほしいです。

ぺラルゴニウム 長い間、次つぎと絶え間なく咲いてくれます。

ぺラルゴニウム 長い間、次つぎと絶え間なく咲いてくれます。

私と戦争 ②  疎開

上野駅中央改札口前は大勢の人で埋め尽くされていた。私達(母・私・弟二人)もその中に入り、6・7時間も汽車に乗るために待った。やっと汽車に乗ったら、私7歳と弟5歳は大人たちに挟まれて、身動きもとれずに何時間も立ち通し。

 どのくらい走ったのか急に汽車が止まった。と同時に大声が上がった。何の声なのか不思議に思う間もなく、すし詰めの人々が動き出し、汽車から降り始めた。私達も後に続いて降りた。

 なんとそこは真っ白な銀世界だった。生まれて初めて見た真っ白なたくさんの雪にしばし呆然とした。フッと我に帰ったら、周りの大人達が夢中で雪を食べていた。どちらを向いても両手で雪をすくい夢中で食べていた。そのすさまじい姿が戦後70年も経った今でも、雪が白く積もると思い出す。 とにかく皆空腹だった。

 やっと、田舎の駅に着いた時、そこには雪が無かった。 見渡す限りの平野が続いていた。東京では見たことが無い景色だった。違和感の中で母について歩いた。しばらく歩くと母が「ここがお母さんが生まれた家よ」と言った。母の後について家に入った。そこに大きな馬が2頭立っていた。驚いた。気が遠くなるほどに。こんなに近くで馬を見たことが無かったし、それに馬が家の中にいるなんて考えたこともなかったから。

 馬に驚いている間に、子供たちがわぁーと寄ってきて私たちの手荷物を奪い合い、中を見ては放り投げた。何か食べ物があるかな と思ったらしい。私のお出かけ用の大切なバックも土間に投げられて・・・・・やっと着いてホットする間もなく 私は泣いた。

 学校に行けない6歳未満の子供たちが7人居て、家の中で走り回っていた。母は9人兄弟の末っ子、皆子供を連れて疎開していた。30人位の大家族に成っていた。

 この年は、積雪の少ないこの地も豪雪に見舞われた。朝、目覚めても襖が開かず寝間から出られず、学校にも行けずに居た。男性は皆兵隊に獲られて屋根に上るのは大変だった。

私は初めて しもやけになった。初めは両手の甲は赤紫に膨れていたが、崩れて骨が見えそうになり、痛痒くて毎日泣き暮らした。 両耳、両足もしもやけになった。包帯でぐるぐる巻かれていた。毎晩薬を塗り替える時、包帯が疵から離れず引っ張るので、痛くて痛くて悲鳴を上げていた。

田舎に着いてから大分経ったある日、東京から出した荷物が届いた。大人は畑で、私は学校で留守の時だった。又子供たちが荷物を開けていた。 私が帰宅した時、お雛様が首を抜かれ、着物は剥がされて、散乱していた。何枚着てるのか見たくて脱がしてたら、ばらばらになっちゃったと。 東京から荷物を送るとき 数が決められて居た。これを持てば これは置いていくよ~く考えて決めなさいと言われて、箱に入れたり、出したりした大切なお雛様。いくら泣いても元には戻らなかった。

食事は、箱膳が決められて居て、各自が戸棚から出して、食後は又元のように戸棚にしまった。特に朝食は、時間で家を出る者が多くて箱膳を持って、喚きあい ごった返した。それぞれの器は最後にお湯を飲み綺麗にして箱膳に伏せた。 時々先の人達が食べ過ぎると私達は食べるものが無い時があり、朝から泣いた。

 イナゴの季節は学校へ行くのが嫌だった。イナゴは四角い顔をして私を睨み、もぐもぐと動かす口が気味悪くて掴むことが出来なかった。袋いっぱいに獲らないと教室に入れなかった。見渡す限りの田んぼに子供たちは入り、歓声を上げながら獲っていたが、私は虫類が怖くて泣いてばかりいた。 そのうちに自分なりに特技を身に附けた。後ろ向きになった瞬間に抑えられるようになった。全校生が獲ったイナゴは朝礼台の前にやまずみに成り、業者が買った。それが学用品になった。

 ある日、子供が川に流されていると大騒ぎになった。その声を聞いた時、母は一目散に走りだし、川に飛び込み助けてきた。その夜は姉たちから、さんざん叱られていた。「あんたが死んだら誰が3人の子供を育てるのよ」 と。   しばらくして母は人命救助で表彰された。お米が1俵届いた。「あんたのお母ちゃんは偉いね!」と伯母さん達はわたしに声をかけた。「さすが私たちの妹だわ」と言い合っていた。

玉音放送の時、大人たちは泣き出した。私はそんな姿を見て、戸惑っていた。しばらくして母が戦争に負けた事、東京の家に爆弾が落ちて燃えちゃった事を話してくれた。お父さんが新らしい家を作り、できたら迎えに来てくれると言った。お父さんは毎日お菓子ばかり作っていたのに・・・・・「お家も作れるのだ」と子供ながら誇らしくおもった。

おくら

 今年 初めてオクラの種を撒きました。友人から貰った10粒です。それが元気に芽を出してくれました。10cm位に伸びた時、大きく伸びると聞いていましたので二つのプランターに移しました。

 本当に実がつくかな?つきますようにと水やりをしていました。 しばらくして、オクラの形が見えてきました。花が咲いてから実がつくと思っていましたが・・・なんか実が先につきだすようです。

 今朝、水やりをしていましたら、葉の陰に隠れていて気付かぬうちに、オクラがスーパーで売っている大きさに成長していました。

 びっくり 7個も収穫しました。ハイボネックスを二回あげただけなのに。

 柔らかくて美味しかったです。写真を撮ったり食べたり、今朝は楽しいひと時を過ごしました。

オクラの花

オクラ 花と実 OK

動画の挿入できるかな?

6月6日に「きぼ~る」で動画の勉強会がありました。早速カメラの動画ボタンを押してみました。先生、生徒さん 勝手に後ろから撮ってごめんなさい。ここに入るかやってみます。

動画投稿 勉強会

私が撮った動画は3.MOVで挿入できないと注意書きが出てきました。カメラには8GBのカードが入っています。画像モード 16M 4608×3456で撮っています。もう少し勉強しないと挿入できないことがわかりました。 次回の勉強会でしっかり覚えたいと思います。 失礼いたしました。

 

 

B29  私と戦争 ①

 「幼稚園に行くとキュウリが食べられるんだって 行きたいなあ!」 と私の事だから何度も言って居たのだろう。根負けした母に連れられて幼稚園に入った。おやつに本当にキュウリが出てきた。先生が4っに切り、お味噌をつけてくれた。友達と並んで食べた。美味しかった。本当に美味しかった。  小学校に入ると、毎日給食でパンが出た。私は半分くらい残して家に持ち帰った。「ただいま!」と言うと、二人の弟は我先にと玄関に飛んできて、笑顔で手のひらをそろえて前に出した。何もかも配給の暮らしだったから・・・誰もが空腹を抱えて暮らしていた。

 その日も、母は訓練に駆り出されていた。バケツリレーで水を運び、消火する訓練だ。その他、竹やり訓練もあった。何かにつけて 若かった母は駆り出された。中々帰宅しない母を弟と一緒に見に行った時、 弟が「お母ちゃんお腹すいたよ」と言った。すると近くに居たおじさんが飛んできた。母に近づき大声で怒鳴り出した。「子供に腹が空いたなどと言わせているのか」「貴様は子供にどんな教育をしているんだ」「腹はしっかり締めておけ」と怒鳴りまくっった。いつも大声で泣く弟もこの時は私にしがみついて声も立てず、二人で震えていた。母は何度も何度も頭を下げて謝っていた。この頃、街中で見るおじさんたちは皆怖かった。それから私達親子は街中では口を利かなくなった。

 日増しに警戒警報の発令が多くなってきた。明かりを消して暗くして、静かに解除されるのを待った。 「この家の上で爆弾が落ちたら私たちは死ぬのよ」と母が言って居た。私は「死んだらどうなるの?」と何度も聞いた。そんな時母は黙って私を引き寄せて、強く抱きしめた。

その後、お触れがでて、家族が一緒にいると全滅するので離れている様にと。 それからは警戒警報が発令されると母は末の弟と押し入れに入り、私と4歳の弟を台所の地下室に入れた。弟は「お母ちゃん」「お母ちゃん」と泣き叫んでいた。 私は恐る恐る板をずらして這い上がり、静かに窓に近寄り、少し開けた。「わあ!どうしよう」と思った。 B29が編隊を組んで爆弾を落としながらこっちに向かってくるのが見えた。  私は目をつぶり、「どうか私の家の上に爆弾を落とさないでください」と何度も何度も何度もお願いした。この時のB29の爆音は長い間私を苦しめた。

政府は縁故疎開を勧めていたようですが、何故か母は3人の子供を連れて実家に行くことをためらっていた。  しかし 私はB29が飛んでこないところに行きたくて、何度も母に「田舎に行こうよ」と言い続けていた。

 ある日やっと母が田舎に行こう と言った。 それから 田舎の話を聞いた。母は9人兄弟の末っ子で、上のお姉さんたちは子供が3,4人いる事、田舎の家には子供が7人いる事、私たちが行くと子供だけでも30人位に成ること等。色々我慢できる?大丈夫?と母は私に何度も繰り返し聞いた。

 それがどんな暮らしなのか その頃の私には想像もできなかった。 とにかく爆弾が落ちてこないところに行きたかった。

 

 

さつま揚げ

先日、スーパーでビールを買った時、売り場の人が今サービス期間中で本場の「さつま揚げ」が付いていますと言った。本場からお宅に送りますので、生ものですから指定日に届けるそうです。と  帰宅して夫に都合を聞いたり、自分の予定表を見たり希望日を書き投函した。

 しかし、「さつま揚げ」は指定日に届かなかった。  2,3日は話題になったがその後忘れた。それから暫くしてから 宅急便で~す の声に印鑑を持って出たところ、手の平にのる小さな封筒を渡された。何かなと思い差出人を見たら、九州になっている。 「さつま揚げ」? でも小袋すぎる・・・。早速開けてみた。確かに「さつま揚げ」だった。小型のティースプン位の可愛いの 初めて見ました。こんなに小さな「さつま揚げ」びっくりしました。

  私はね 密かに「さつま揚げ」を沢山頂いたら どうやって食べようかなんて考えていたんです。それに「さつま揚げ」は直径6,7cmの小判型と思い込んでいましたので・・・・・

だんだん  思い込みが多くなり、苦笑するばかりです。さつまあげ